撚られた春のはじまりにて

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──天狗と撫子の旅についての覚え書き

今回の考察は、作者である私がお話します。

桜が咲いていたのは、“春”だったのか。
それとも──撫子の“記憶の中の春”だったのか。
たぶん、両方だったのかもしれない。

あの日、ふと思い立って向かった唐古遺跡は、偶然にも桜がちょうど満開で、強い風が吹いていました。
広がる田園と楼閣の高台に立っていると、風にあおられた花びらが空を舞い、
まるで時間ごと、何かを吹き飛ばしていくようでした。

それは季節の気配であると同時に、
撫子の中で目覚めようとしていた「まだ名前のない何か」の前触れでもありました。

──そして、数日前。
馬見丘陵公園ではネモフィラが一面に咲いていました。
まるで青い風が地上を撫でているようで、
あの唐古で感じた記憶の“ほころび”とはまた違う、
今この瞬間にしかない“やさしい春の青”がそこにありました。

「過去の春」と「今の春」が、
まるで時を超えて撚り合わされるように、
わたしの中でそっと結ばれた気がしています。

わたしはこの旅を、時間をさかのぼるSFとして書こうとは思っていません。
この物語の「時間」は、“時計の時間”ではなく、
誰かの記憶がほどけるときにだけ現れる、“感覚としての時間”です。

だから撫子が立っていたあの場所──
唐古の田園に吹いた風は、
ほんとうに“過去”だったのか、
それとも「今という名の結び目」だったのか。
その答えは、彼女自身にもわからない。

でも、たしかにそこに「立っていた」のです。

天狗という存在もそうです。
妙に軽口をたたきながら、
「6000年キャリアがある」とか、
「おんぶが一番安定する」とか言ってのける、ちょっと不思議な案内人。

けれど彼が見ているもの、触れているものは、
私たちが見落としがちな“縁のほつれ”だったりします。

たとえば──
撫子が祖母の背中を思い出した瞬間、
彼がさっと「おんぶで」と差し出した手。

あれは、時空を超える魔法でもなんでもなくて、
ただの「気配への共鳴」だったのかもしれません。

懐かしさが揺れたとき、旅は始まります。


【これを読んでいるあなたへ──もし、立ち止まったら】

この物語を読んで、「これは何?」「これはいつ?」と戸惑った方がいたら、
それは当然のことです。

特に、日々忙しく現実を生きている方──
家事に、育児に、仕事に追われている方にとっては、
「時間の波にのまれて旅に出る」なんて、
とても唐突に映るかもしれません。

けれど、ふと思い出してください。
眠る前にふとよぎる、“あのとき”の記憶や、
子どもの背中を見送った日の空気感。

そういう“今でもない、過去でもない何か”が、
ふとした瞬間に“結び目”のように現れること、ありませんか?

それは、時間のねじれではなく──
記憶と祈りが重なった「撚り」の場所。
撫子が立っていたのは、まさにそこなのです。

唐古の風が運んだものは、季節ではなく“記憶の気配”。
そして彼女は、おんぶで旅に出ました。

でもそれは、“自分の足で歩けないから”ではありません。
あの日、祖母にしがみついたように──
誰かの背中を借りてでも、
「ちゃんと感じてみたい」と思ったからです。

そして、これから始まる物語は、
彼女が誰かの記憶を辿るだけではなく、
「自分の中にも、何かが結ばれていた」ことに気づくための旅。

もしあなたの心にも、
ほんのひとひら、花びらのような違和感が舞ったなら──
それは、撫子と同じ旅の風を感じたということかもしれません。

では、次からは本格的に、火の記憶が動き出します。
ニギハヤヒという名をめぐる物語。
あなたの中にもある、
“まだ解けていない撚り”に、そっと手を添えるように──

次の頁をひらいてみてください。
それではまた改めて。
(了)

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