第一話|プロローグ
ヒ。火。日。霊。
人類が最も恐れ、畏み、そして敬い、尊んだもの。
それが――ヒ。

この物語は、そのヒをどう結んだのか。どう結ぼうとしたのか。
そんなお話です。
原始、火を放ち、燃えるように生きた者がいた。
――いや、神さまだったのかもしれない。
その神は、未来から火を持ってやってきた。
光でもなく、炎でもない。意志としての火。
人類はその火に触れ、恐れ、迷い、やがて――封印した。
けれどその火種は、まだ、消えてはいない。
その火が目覚めるとき、もう一度、世界は燃えはじめる。
満月の夜。神殿の軒下に、小さな影があった。
三羽のツバメの雛が、巣の中で身を寄せ合っている。
夜空を知らず、ただ温もりだけを信じて、じっとしていた。
その下で、もうひとつの火が、静かに目覚めようとしていた。

神殿の中央に立つ若者――ニギハヤヒの瞳には、揺るがぬ火が宿っていた。
母さんは、間違っている!
何を言っているの…むすびは危うい。あなたの中の火は、まだ制御できていないのよ。
でもこのままじゃ、何も変わらない。浄化と管理だけの時代は、もう終わる。だから僕が行く。火を灯しに。火を降ろしに行く。
……今の世界では、分断や戦争が起きている。世界を滅亡から救うんだよ。
彼は神殿の奥、磐船へと続く石段へ足を踏み出す。
あなたはまだ、この火を知らない。私は未来を見てきた。この火を持っていかなければ、誰も、あの絶望を越えられないんだ――!
私は……火が怖いの。あなたがこの手から離れて、燃え尽きてしまうのが――怖いのよ…
その火は――世界を焼いてしまうかもしれない!
その言葉と同時に、空が割れるような雷鳴が轟いた。
一筋の稲妻が、ニギハヤヒの身体を貫く。
――そして、彼の姿は、光の中に消えていった。

しばし沈黙。
満月が、ただ静かにその場を照らしていた。
瀬織津姫は静かに涙を拭いながら、首にかけた翡翠の勾玉を握る。
雷が落ちた瞬間、火と記憶が交差する感覚があった。
肉体は神殿に残され、彼の意識だけが過去の空へと撚られていく。
八咫烏。十種神宝の作動は――準備できていますか?
影の中から八咫烏が現れ、深く頭を下げる。
はっ。いつでも、起動可能でございます。
月光に照らされた勾玉には、撚られた麻紐がほのかに光り、微かに揺れていた。
瀬織津姫は勾玉を見つめながら、誰にともなく問いかける。
――誰か、おらぬのか。この火を止める者。火を囲み、地に根付かせようとする者は…
そのとき、静寂を破ってもうひとつの声が響く。
……俺が行こう、母上。兄さんの火が、まだ燃えているのなら――俺は、それを見届けたい。

影の中から現れたのは、ニニギだった。
八咫烏、先に行っておいてくれ。
彼の瞳にも、また炎が宿っていた。
そして――第二の雷が、彼をも貫いた。
(つづく)
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